村上春樹が好きだ。
むかつくほど好き、という表現がしっくりくる。
数々の作品は、そんな大したことないんじゃないかと思うのに、
何度も繰り返し読んだり、登場人物の台詞を覚えていたりする。
まあ、大ファンなわけです。認めたくないほどに。
なぜ認めたくないのかは、私自身 よくわからないけれど。。
ずいぶん前になるけれど、アメリカに留学するときに、日本から持って行った本は、
すでに何度も読んでいた「世界の終わりと ハードボイルド・ワンダーランド」だった。
留学前から何度も読んでいた本を、わざわざ持っていって、
向こうでも、何度も繰り返し読むって、どういうことなんでしょうね。
「ノルウェイの森」のワタナベ君が、
グレイト・ギャッツビーのページを出鱈目に開いて、繰り返し読んでいるのと同じように、
世界の終わり、を、私も適当に開いたページから何度も読んでいた。
村上春樹以外で、何度も読んでいる小説というのは、今、すぐには頭に浮かばない。
今回、また悔しいほどに心揺さぶられてしまったのは、
an・anでの連載コラム「村上ラヂオ」での歌に関する記述だ。
まさにそれは、このところずっと私も感じていたもので、
どうにもこうにも表現できなかったものだ。
何を張り合おうとしてるのか、本当に自分でもわからないけれど、
彼の音楽に対する表現は、とても私の胸をつく。 むかつくほどに。。
彼の言うように、自分の苦しみや悲しみを音楽に付着させて、
自分がばらばらになるのを防いでいる、というのは、私そのものだ。
小説にも同じ機能が備わっていると、彼は言う。
そして、彼が願う、彼の書く文章が、それらの役割を果たすことは、
すでにずいぶん前から私には作用していた ことになる。
いろんな思いがある。
なかなか、そう簡単にはうまくはいかない。
苦しくて 眠れない夜は、好きな音楽や村上春樹の文章にただ自分をゆだねよう。
