”そんなことで癒されてたまるか。
私が受けた傷はそんなに簡単に癒されないほど深いのだから”
と、思っていた時代があったように思います。
また、”私をこうしてくれたら、許してやろう。癒されてやろう。”
的な、何に対してそんなに偉そうにしていたのかはわかりませんが、
どこか傲慢で上から目線だった気もします。
ほんとうに苦しくて苦しくて藁をもすがる気持ちなのに、
”ヒーリング”と歌われてるものに、素直に癒される自分というのものが
耐えられなかったのです。
でも、ヒーリングに関わる情報は必死で集めていましたし、
実際にエナジーヒーリングのようなものも受けたことがあります。
ひねくれていますね。
ハイ。
ひねくれながら、でも、苦しみから逃れたかった。
救われたかった。
癒されたかった。
ひねくれずに素直に生きたかった。
ひねくれながら、闇はいつか明け、幸せな未来がくることを信じていた。
ひねくれがなければ、もうちょっと楽だったと思うのですが、
何かに深く傷ついて、病んでしまうときは、防衛反応で身だけでなく心もひねって交わすのでしょう。
とすると、多少のひねくれがあって当然なのかもしれません。
そのひねくれてこんがらがってしまった心をほどく作業を
ヒーリングというのかもしれません。
そしてそのヒーリングは、いかにもなヒーリングではなく、
”道場”的なものが、ひねくれものには合ってると思っています
私の場合、それはフラでした。
